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第四十一代天皇。在位690〜697年。
天智天皇を父として大化元年に誕生。日本古代史上最大の内乱、壬申の乱を生き抜き、その後の律令体制の形成期において権力の中枢にあった女帝。
名を?野讃良皇女。斉明天皇3年、13歳で大海人皇子に嫁ぎ、百済出兵に伴って皇子と共に赴いた大津で天智元年草壁皇子を出産した。
武徳に優れた英才大海人皇子が、近江を根拠とした大友皇子と皇位を争ったのが壬申の乱。天智帝崩御二日後に天皇として即位したとされる大友皇子(弘文天皇)は彼女の兄に当たる。
抗争に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、皇女を皇后とする。彼は唐帝国に倣った律令国家建設をすすめるが、政治に臣下を参加させず近しい皇族による政治をおこなった。為に皇后は政治に深く関与することになる。
686年天武天皇の崩御まもなく大津皇子の謀反が起こり、実子草壁皇子の皇位継承を目指した皇后はこれを排除、しかし草壁皇子も病弱であった。
689年皇子が薨去。皇后は正式に皇位を継承し、翌年1月に持統天皇として即位する。先帝の出した飛鳥浄御原令を軸に、持統天皇は位階制(冠位制の段階的整備)・戸籍編纂(庚寅年籍)・中国式の継続性の高い王都建設(藤原京遷都)といった中央集権化政策を行った。その一方で天武期のような皇親政治を改め、高市皇子・藤原不比等をはじめとする臣下の政治参画をゆるした。
称制期を含めた持統政権は11年続き、帝位は草壁皇子の忘れ形見、文武天皇に禅譲した。そして夫君から受け継いだ律令国家の理想も文武期の大宝律令によって完成する。
持統太上天皇は後見としてこれを支え、翌年702年崩御した。